第5回  「スウィーサイドジョッキーこと営業部長の巻」


人間ってそりゃあイザという時になれば助けてくれるんだろうけれど、数々の私の今までの人生の転換期からすると、自分が変わっていかないといけないし、自分でどうにかしていくしかないと思う。

飯食って生活していけないとしたら、それは親の援助ではなく自分でどうにかするしかないからである。その気持ちが大切だと思うし、一つの人との出会いや導きがチャンスだったりすると思う。私がこの会社に入社してすでに20年も経過しましたが、まさにそれである。

それまでの人生に悔いは無いが、数々の失敗を繰り返し後悔した事や人を傷つけたり傷つけられたりしてきた。そこで第一子が生まれどうにかしなければいけないと思った。ある何人かの人がその当時まだ聞きなれない産業廃棄物処理や金属買取の業界の話題に触れた。近い将来この業界が良いし、現業ではなく営業していったらすごく面白いと思うと。全て飲みながらの会話であったがズシリと残ったんだな。

それから地元の大所の何企業かに門戸をたたき、いわゆる就活してみたが、何故だかしっくりこなかった。この浜松ど真ん中の男がフラ〜っと細江の職安へ行ってみた。そこで知り合った指導員の職員さん。もう20年も経過したから今いるのかわからないんだけれど今会ってお礼を言いたい。この会社現場職募集しか出ていないんだけれど面接に行ってみたらと教えてくれたのが株式会社丸新藤城商店でした。若い人が行くとおもしろい会社だと思うよって言ってくれた。

今は亡き会長との出会い面接。現社長との面接、私の上司O氏との面接。そして無事入社。その頃営業部なんていう部署は無く、営業する人って感じだった。わずか50人くらいの小さい会社で強面の親父達ばかりでした。営業する人は4人くらいしかいなく、私への指示は浜松行って仕事とって来てって感じの指示のみで研修無しのブッツケ本番でした。とにかく名刺を配り受注って楽しいなあって思ったし、現場仕事手伝うのもセットでしたからね。配車予定も組んだりしたけど、今の基幹システムの状態を全て手書きで、みんなであーでもないこーでもないとやってましたね。内容は皆様には言えませんが亡き会長には助けてもらいました。良い思い出です。

振り返るとよく働き、よく酒を飲んで、人に迷惑もかけてきました。営業的にも今は当たり前の事。昔に戻ると、営業的な味付け(仮設トイレとかお掃除とか副業的なしくみ)、一廃のエリア外の外注つけ、FRP船のリサイクル、バイオディーゼル燃料、食品リサイクル(これは失敗)。古紙営業、解体協力会の前身発意等々やってきて今形に残っていて良かったと思っております。私がいたころは第一第二工場のみで、それから大川工場が完成し、東三河(今はありません)、浜北工場、磐田工場、岡部工場、袋井工場と工場設備も急激に増やして営業的にも売り物が多くリサイクルの大切さも実感説明でき、やりやすかったと思う。この会社がすごく変わっていくと実感したワンシーンは、大川工場の竣工式の時にゲスト前で挨拶と共にシャッターが全て一斉に開いたとき、常にこのワンシーンが脳裏に焼き付いております。

今日平成28年5月7日31期(株)リサイクルクリーン社員総会。私はひょっとして20周年報奨かな?次回のメルマガは紳士の大石眞人さん。実はこの社員総会の司会者でもありました。お楽しみに。