TUBOJUNコラム Vol.21


「泥中之蓮」


皆さま、こんにちは! 今年も早いもので残すところあと3ヵ月。トシを取ると時間が経つのが早く感じるとはよく言いますが、それは古今東西同じなようでして。19世紀にはフランスの哲学者ポール・ジャネが、時間の心理的な長さは年齢に反比例すると指摘し、この現象はそのままズバリで「ジャネの法則」とも呼ばれています。しかし、「あっという間の1日だった」「長い1日だった」ともよく言いますが、時間の経過に対する心理的な実感はトシによる変化だけでなく様々。もう少し時間を有効に使わなきゃと日々悔いながら惰性に流される毎日。今年の目標はあっさり諦め、来年こそは!と性懲りも無く開き直っているTUBOJUNです!

最近、個人的に印象深かった出来事の一つは、民進党の代表に蓮舫さんが就いたこと。政治家イコールお年寄りのイメージってありませんか?私とは縁遠い世界の話と思っていましたが、よくよく考えれば蓮舫さんと世代的には変わりません。自分もそれなりのトシになってしまったか・・、と改めて思い知るのです。嗚呼、しかし何たる彼我の差・・。とまあ、それはいいとして、蓮舫さんが代表に選出されると、その名前の由来について、台湾の祖母が平和の象徴である「蓮(ハス)」の字を入れることを強く願ったから、と改めて紹介されました。ヒンズー教や仏教の世界でも極楽の象徴として特別な花とされる蓮について今回は語ってみましょう。

水面からすっと立った茎に、清らかな白やピンクの花を咲かせる蓮。盛夏の頃、夜明けとともに開花し、昼から夕方にかけてしぼみます。「濁りにしまぬ花はちす」と、その芳香あるすがすがしい花の姿は古くから漢詩にも詠われ、君子花ともいわれるほど。花が終わると花托が漏斗状に発達し、種が育ちます。熟した種子が落ちた蓮の実は、多くの穴が空いた形が蜂の巣に似ているため、古名を「はちす」ともいいました。蓮の根(地下茎)であるレンコンや蓮の実は食用とされます。また、蓮は泥池を好みながらその葉や花が常にきれいな状態を保つのは、蓮の葉自体に撥水性があり露のように水を弾くためです。蓮の英名ロータスからこの天然の撥水性を「ロータス効果」といいます。ナノテクノロジー分野ではこのロータス効果が研究され、競泳水着にも採用された繊維技術や最先端の塗装技術などに応用されています。

蓮が清らかさの象徴とされるのは、「泥より出でて泥に染まらず」という日本人にも馴染み深い中国の成句がその理由を端的に表わしています。大乗仏教の初期経典の一つである維摩経でも「譬如高原陸地不生蓮花、卑湿淤泥乃生此華(高原の乾いた陸地には蓮の花は生じないが、低い湿地の泥沼に蓮の花が生じる)」と説いています。卑湿の淤泥とは、私たちの煩悩そのもの。悲しみ、悩み、苦しみ、泥のような欲望の渦巻くなかに、蓮のように凛として生きる。それを人としての佇まいモデルとして古来より「泥中之蓮」という美しい話が伝えられたのです。

また、維摩経の「泥中之蓮」を由来とし、後に平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した同時代の三人の高僧が端的に解釈し直して伝えた言葉があります。浄土宗の開祖である法然上人は「泥中にあれど花咲く蓮華かな」と伝えた。また、天台宗の源信は「泥中にありて花咲く蓮華かな」と伝えた。そして、浄土真宗の開祖である親鸞は「泥中にあれば花咲く蓮華かな」と伝えている。わずか三文字の違い。偉大なる賢者が残したそれぞれの言葉が表わすニュアンスの違いを噛み締めると味わい深いものがありませんか。個人的にはこの三者の言葉の中では親鸞の「泥中にあれば」が最も好きです。泥と蓮は相反するものではない。蓮は泥の中の養分を送り美しき花を咲かせ滋養深き蓮根を育てる。泥があるからこそ蓮でいられる。そう思いたいものです。

話は戻って蓮舫さん。クラリオンガール時代から変わらぬスラッとしたスタイルに定番の白いスーツ。蓮舫さんの出で立ちはまさに蓮の花のようです。同僚の女性議員をして「どんな場面で映像や写真に納まってもイメージを裏切らないのはすごい」と、元タレントらしく常に見られていることを意識した立ち振る舞いは流石。そして蓮舫さんといえば高い発信力。とはいえ、自意識過剰の「芸」じみた語りっぷりは時に物議を醸す。でも、気にすることはありません、蓮舫さん。蓮の花言葉も「雄弁」ですから。世間に導きを与える実を持った雄弁なのか。それとも単なるハッタリの効いた「詭弁」なのか。その違いは彼女を支えるバックボーンに滋養に満ちた蓮根(レンコン)が深く根を張っている否か。さて、蓮舫さんは野党第一党の命運を握る若き党首として「泥中之蓮」たりえるでしょうか?

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