TUBOJUNコラム Vol.26


「粋」


皆さま、こんにちは!この原稿を書いているのは2月25日の土曜日。その翌日は私の誕生日。ということで、45歳最後の日は、〆切に追われ、会社に缶詰めの日となってしまいました・・。ほとんどの人はある時点から自分の年齢を自虐的であったり、消極的であったり、否定的に語るようになります。「もう」と言うのか、「まだ」というのか。たった二文字であっても、その違いは大きい。言葉に出した時点で気持ちが変わる。気持ちが変わると行動が変わる。まだ46歳のTUBOJUNです!

ところで、年齢に関しての格言でいえば論語の「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」が有名。なるほど、とは思います。が、よく考えてみて下さい。四十にして惑わず・・?人生も四十代になると若き頃の純粋さは失せ、惑い(迷い)は逆に年々増えるばかり。孔子様は凡人の苦しみも分からないのか?そんな2千年以上前に孔子が残したメッセージに面白い解を与えてくれる説があります。

その説は安田登氏の「身体感覚で『論語』を読み直す/古代中国の文字から」という本にありました。漢籍の専門家ではなく能楽師である安田登氏が、学者の固定観念ではなく、役者としての常識的な身体感覚で論語を読むこと。そして、論語を現代の漢字ではなく、孔子が生きた時代の古代中国文字の語源まで遡って解釈し直すこと。その二つがテーマの本です。

そして「四十にして惑わず」という最も有名な論語の言葉。孔子様ともあろう方が出来もしない建前の教訓なんか残す訳がない、というところからスタートして、孔子時代の文字に戻り意味を考え直す。すると「惑」という漢字は孔子時代には存在せず、本来は同音である「或」であったのが後世に「惑」に置き換えられたのでは?と推測したのです。そして「或」の原意は「境界によって区切ること」「心が狭い枠に囲まれること」であることが分かる。以下非常に面白い解釈なので同書よりそのまま引用。

『四十、五十くらいになると、どうも人は「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。「自分ができるのはこれくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方がない」とか「人生はこんなもんだ」とか、狭い枠で囲って限定しがちになります。「不惑」が「不或」、つまり「区切らず」だとすると「そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなければいけない」という意味になります。そうすると「四十は惑わない年齢だ」というのとは全然違う意味になるのです』

これなら納得できるでしょう?枯れたような雰囲気も漂う「不惑」ではなく、ポジティブな「不或」。ですが、年齢とともにはまりつつある「枠」を外すことこそ、言うは易く行うは難し。そのため私は自分の枠を外し、自らの可能性を広げるためある目標を決意しました!それは・・、まあ内緒にしておきましょう。

TUBOJUNの日々の仕事の様子はコチラ http://www.recycle-clean.co.jp/stuff/blog04


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